わたしはこのブログの自己紹介として、「座右の銘は無知の知。」と書いています。
これがいかに難しいか、実感していることを書き留めていきます。
まず、座右の銘が「無知の知」になった理由ですが、自分自身が誰にも理解されていないと感じたことから始まっていると思います。
わたしはこのブログで公開しているとおり、病気や障害を経験しています。
苦しんだ時期に感じたことは「孤独」で、誰とも気持ちを共有できないと思っていました。
そもそもわたしは、本心をさらす、ということが怖くて常に自分を偽っている状態だったため、他人が理解するなど不可能だったと思います。
だから理解してもらえている、という実感なんて持てるはずがありませんでした。
また、就活の際に書かなければならない履歴書にも息苦しさを感じました。
履歴書って、自己PRといわれるように、自分を表現して相手に理解されるように工夫を凝らすようなものとなっていますよね。
でも、わたしをわかってもらうためには、生まれてから病気のことや今感じる苦しさまで、全てを書き尽くさなければならなくて、一般的に奨励される履歴書の中身とはほど遠いものになってしまいます。
奨励されるような書き方にしてしまうと、都合の悪いことは隠すことになって罪悪感もあったりするし、こんなもので評価され進路を左右されてしまうのが辛かったです。
企業側は何もわかっていないのに。と。
だから結局のところ、みんな何もわかることなんて無理なんじゃないか、と思うようになりました。
わたしだって誰のことも、何のことも、真に理解はできていない。これをちゃんと心に留めておきたいと思っています。
ただしこれが本当に難しい…。
例えば、見た目でわかる障害のある人。ダウン症や視覚障害など。
街でそのような人を見かけると、あ、障害あるんだな。と反射的に思って、大変だろうなと思ってしまったりします。
全体的にそのような傾向がある、というのは事実だとは思いますが、目の前の当人がその傾向がどのくらいあるかはわからないのに決めつけてしまうのです。
はっとして、いやどんな人かはわからないぞ、と無知の知を意識しようとはするのですが、やはり難しいなぁと思います。
かといってその認識が悪いものなのかというと、そうでもないこともあると思います。
ちょっと意識を向けていることで、何かあったときに手助けができる可能性もあるからです。
では、精神障害やLGBTQなどの場合はどうでしょう?
一見わからないことがほとんどですが、働いているはず、異性愛者のはず、などなど、無意識にラベリングして関わってしまいます。
(もちろんいわゆる健常者、異性愛者でもある分野で少数派であることはあるのに、「はず」を当てはめてしまう)
このことで傷ついた経験がある人は多いと思いますが、全くなくすことはできないと思います。
あらゆる可能性を考え続けるのは人としての能力では難しく、ある程度予測して行動するからこそ生きていられるのだと思うから。
じゃあどうしたらいいのか。
正解はわからないし存在しないのだと思うけど、とりあえず無知の知を意識し続けるしかないんだろうな、と思っています。
親しくなった人でもわかっていないことはたくさんあるし、家族でもそう。
忘れがちにはなるけど、今年も引き続き意識していきたいと思います。