cotton の 目

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当たり障りのない性格のわたしが、密かに持っている視点を綴ります。

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わたしは何のために生きているのか?

 

「何のために生きているのか。」

一度は聞いたことがあるフレーズではないでしょうか?
あるいは、自身の心に引っかかってる方もいるかもしれません。
わたしの見解をまとめてみたので、見てみてください。

 

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かいているひと:cotton
マイペース主義の慎重派。あまり表に出さない視点・思考をブログで放出中。
【最近の疑問】みんな横文字の意味わかるの?

結論から言うと、わたしとしては
生きるのに目的なんてあるの?生まれちゃったんだもん!
という感じ。

「何のために生きているのか」という疑問を紐解くと、結構不思議な疑問だなぁと思った次第です。

 


 

まず、この疑問が生まれるのはどういうときか考えてみました。

「何のために」が表しているのは、自分は何のためにもなっていないのではないか、という不安だと解釈しました。
自分が思い描いた結果を出せなかったり、人に迷惑をかけていると感じたりするときに抱くと思います。
無力感罪悪感といってもいいかもしれないですね。

でも、有力善良であることが生きる目的なのかというと、わたしはそうは思いません。

そもそも本当に悪い人であれば罪悪感は感じないでしょうし、その時点でもうあなたは善良です。
それに 有力者はしばしば権力を乱用し、悪人になり得ます。
無力であることは自然で、悪いことではありません。

これをまとめると、何のためにもならないのが自然
不安を感じこの疑問に悩む必要はありません。
もちろん感じ方を否定するわけではありませんが。

 


 

ただし、社会では無力であることを受入れられにくいというのは事実です。
学校では成績を上げることを求められ、会社等でも 会社・社会 に貢献することを求められています。

でも、わたしは成績を上げて誰が喜ぶのか、誰のための貢献なのか、そしてそれは個人の人生の目的にはならないのではないかと考えています。

難しい表現を使うと、わたしたちは資本主義社会の部品として使われているのだということだと思います。
資本主義はあくまでも社会全体としてのシステムであり、個人の人生にまで反映して責任を負う必要はないのではないのでしょうか。

ひとりひとり、好きなように生きていいと思う。

 


 

次に、「生きている」という部分に焦点を当ててみます。
生きている、とはありますが、自発的に「生きている」自覚はありますか?

少なくともわたしは、受動的に産み落とされ存在している。
生まれたあとは、人生において生きるか死ぬかの選択肢がありますが、別に選択して生きている訳ではありません。
ただ時間が過ぎてきただけで、死にたいと思ったときだけ「死ぬ」の選択肢がよぎります。

「生きる」の選択肢を積極的に選ぶのはいつなんでしょう?
事故や災害に巻き込まれて、生きようと必死に這い上がる、そんなときでしょうか。

幸いにもわたしはそのような場面を経験したことがないので、「死ぬ」を先延ばしにしていただけ。
結果わたしは今生きている。これが一番近いような気がします。

 


 

ということで、考えれば考えるほどこんなこと考えなくていいよな、と わたし自身の認識が深まりました。
とはいっても、この疑問を考えたり悩むことは無意味ではないと思います。

今まで綴ってきたものはわたし個人の考えですから、皆さんも自分の考えと比較してみると面白いかもしれません。

わたしが考えた結果思うのは、社会に動かされたくはない、ということです。
わたしはわたしの気持ちに正直に生きたい。
生きる選択肢を積極的に選ぼうとは思わないけど、時間があるのであれば、その時間は穏やかに過ごしたい。

これくらい気楽に考えてもいいんじゃないでしょうか。