cotton の 目

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当たり障りのない性格のわたしが、密かに持っている視点を綴ります。

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「泣く」とはどういうことなのか

 

突然ですが、最近を流したことはありますか?
わたしはこの間、久しぶりに泣きました。
そのことで思い出したことがあったので、書き留めておこうと思います。

 

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マイペース主義の慎重派。あまり表に出さない視点・思考をブログで放出中。
【最近の思い】働きたくない…

わたしは泣き虫というわけではありませんが、急に喉が熱くなって、どうしようもなく痛く苦しくなることが、昔はよくありました。

必死に我慢すればそれで済むのですが、喉の熱さ・痛み・苦しみ の波が押し寄せると、となって流れていきます。

この現象をひとに話したことがないので、皆この経過で泣くのかわかりませんが、少なくともわたしはそのように捉えています。

 


 

先日、ふとしたときにこの喉の痛みが襲ってきました。

人に見られるような場所ではなかったし、
「これは涙のスイッチ。涙は我慢しない方がすっきりする。」
と学習していたので、我慢せず為すがままに涙を流しました。

思った通り、その後は苦しさを引きずることなく過ごすことができました。

 


 

ただ、わたしは泣くときの原因を知りません。
痛みは涙のスイッチだけど、痛みを誘発するものは何なのか。

喉の痛みに耐えているときも、涙を流している間も、わたしの頭の中では
「何で?何が嫌だったんだろう?いくつか引っかかったものはあったかもしれないけど、泣くほどなの?」
と人ごとのようにぐるぐると考え、答えはわからないのです。

大人になると、さすがに人前で泣くことはほとんどありません。
しかし、子どもの頃や 一時期精神的に不安定だった頃はよく泣きました。
すると「どうしたの?」と聞かれます。

皆さんも聞かれませんでしたか?
そういうとき何と言ったらいいんでしょう?

言わないけれど、「わたしだってわからないよ!」と当たりたくなりました。
いや、もしかすると普通は明確に嫌なことがあって、それを理由に泣くんでしょうか。

「泣く」ということがどういうことなのか、本当に未だにわからず、喉の痛みが襲ってこないことを願うばかりです。

最近の仕事の困りごと

 

最近、バイト先で困っていることがあります。
よくある悩み。ゆるゆる と グチる回です。笑

 

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【最近の思い】働きたくない…

以前の記事でも書いたように、わたしは 常に笑顔になっちゃう性質 があります。
それと同じようなパターンなのですが…。

最近、バイト先で頼まれた仕事を「今忙しいので無理です…」とは断れずに困っています。

 


 
わたしは、職場では唯一の 事務(雑用)専門 として働いています。
こんな風に言うと格好良さそうなのですが、単に接客が向いていなくて、できることだけをやっているという感じです。

他の社員さんは、もちろん事務もやりつつ接客メインで働いているので、わたしのことは 暇な人 と見えているよう。(T-T)

そのため、様々な仕事をわたしに回してくるのです。
主には直属の上司が、毎週毎週「これやってくれる?」「お願いあるんだけど、いい?」と言ってきます。

もちろん仕事なので、自分がやるべきことは全うしようと思うのですが、全部が中途半端になってしまうので、仕事に納得できないまま帰宅することも多くなりました。

仕事量を相談しなければ…と思ってはいるのですが、「お願い」と言われると、例の笑顔とセットで、「わかりました!」と口から出てしまう…。

 


 
ここで、今の状況をより詳細に説明すると、わたしは週2回のみ出勤しています。
在宅ワークなどもないので、純粋に週2。

上司たちは週5~6勤務で、その1週間の間に生じた いわゆる「雑用」を、わたしが週2回かけて処理する…という現状。

そして、わたしが少々デザイン関係が好きなこともあって、チラシ作成なども任されています。
作り直したり、新たに作りたい チラシやPOPがかなりあるのに、雑用をこなすだけで精一杯なのが辛い。

でも 上司らは最低限のデザイン性で満足されるので、わたしがどんなにこだわってチラシを作成しても、きっと評価は変わらないんだろうなぁ とも思います。

きっと「やりがい」ってこのことなんだろうな、と思います。
自分が納得しながら仕事をすること。満足すること。

少ないとはいえ、働いてお金をもらえるのは幸せです。
だけど、もっとじっくりデザインに時間をかけられたらなぁ。。。。。

てんかんでも映画が観たい

 

てんかんには、光によって誘発されるものがあるようです。
わたしは、映画館で映画視聴後に気分が悪くなったことがあるので、ここ何年かは避けるようにしています。

 

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【最近の思い】コミュニケーションって難しい。

光に注意するべきなどと、医師から言われている訳ではありません。
ただ、怖い思いをしたくないので 原因と疑われるものには積極的に近づこうとは思わないのです。

「怖い」についてはこちらから

脳動静脈奇形とは【自己解釈】 - cotton の 目

わたしは、脳動静脈奇形がありました。あまり聞き慣れない病名です。 わたしなりの解釈を紹介しているので、参考程度に覗いてみてください。



個人的には「イヤな感じ」の原因として疑っているのは、映画館内の 光のコントラスト です。

映画館は真っ暗な空間の中で、強力な光を使用しています。
その明るさの差が苦手な気がしています。

それに加え、音声は例外なく 大音量 
静かな内容の映画であっても、やはりテレビとは比べものにならない大きさですよね。
音声については、てんかんとは無関係の個人的性質だとは思われます。
わたしは近距離の打ち上げ花火や雷は嫌いだし、バイトの悩みもインカムだったりと、音に敏感なのでは…と思うところがあります。

それらの相乗効果というのか、不安感が増幅するように感じています。

参考

【てんかんinfo】日常生活のアドバイス:テレビ・ゲームについて

…まれではありますが、しま模様、チラチラする光、赤色の刺激などで発作が誘発される「光過敏性てんかん」があります。これまでに視覚刺激やゲームで発作を起こしたことがあれば、光刺激の強いテレビやゲームは望ましくありません。…


 

一方で、音や光は全く関係なく、一度てんかん発作を起こしたことのある場面が怖いだけ、ということも考えられます。
原因は突き止められませんが、いずれにせよ「怖い」という感覚には間違いないので、気になる映画があるときは テレビでの放送やDVD化を待っています。

しかし、流行の映画をすぐに観られないのは結構悲しいです。
照明を点けたままで、かつ音量控えめで放映する映画館があれば、ぜひ観に行きたいと思っています。

 


 

今回は映画を中心に書いてみましたが、「光に対しての怖さ」は他にもたくさんあります。

学校でのプロジェクターを使用した授業では、長時間注視しないようにしていました。
また、アーティストのライブなんかも行ったことがありません。憧れてはいるんだけど…。
ピカピカしない落ち着いたライブ、盛り上がりに欠けるんでしょうか。
需要はあると思うんだけどなぁ。

わたしはコスメが大好きです。

 

コスメ?摂食障害と関係ある?
と思われた方もいるかもしれませんね。
でも、わたしにとってはかなり深い関係があります。気になった方はぜひ。

 

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【最近の疑問】みんな横文字わかるの?

まず、タイトルの通り、わたしは コスメ が大好きです。
見ているとウキウキするので、暇さえあればドラッグストアを覗いたり、スマホで検索しまくったりしています。

こんな風に楽しめるようになるのと反比例するように、摂食障害のことで苦しむ時間が減っていきました。

関係あると思いませんか?

もちろん、元々関連付くとは思ってもみませんでしたが、振り返ると あれ、と気付いたんです。


f:id:cotton-me:20210520114236j:plain摂食障害に最も振り回されていた時期は、思考の最優先がカロリーでした。
食べるのにかなりの時間を要したこともあって、必然的に1日中食事のことを考えることになり、他の何かを楽しむこともできませんでした。


f:id:cotton-me:20210520114338j:plainそれから時間が経過し、会食・外食の経験に慣れていったり、断り方を身につけることで、食事が思考を占領しなくても済むようになりました。
いわゆる「余裕」が持てるようになった。

 


 

それまでは、メイクなんて アイブロウ+パウダー という最低限しかしなかった (考えられずできなかった) のが、動画を見て勉強するようになりました。

f:id:cotton-me:20210520114438j:plainすると どんどんハマってしまい、コスメをコツコツ買い揃えました。
楽しくて楽しくて、思考の割合が着々とコスメへとシフトしていきました。

実ははじめは、このことに罪悪感を抱いていました。
1日中コスメ検索に費やすことも珍しくなく、「また今日もなんにもしてないよ…」と。

でも、確実に楽しかった。
そしてずいぶんメイクが上手くなった。(とおもってる🙄)
それによってちょっと自分を好きになれた気がします。
言い換えれば、メイクのおかげで自己肯定感が高まったのです。
(メイクが上手くいかないと、テンションだだ下がりですが。)

 


 
ここに摂食障害が繋がってきます。
摂食障害になる人は、自己肯定感が低い、とよく言われています。
本当はどうかわからないし、だったらどう上げればいいの!とムカついて嫌いな言葉になりかけていましたが、わたしについては コスメ・メイク が自己肯定感を引き上げてくれています。

かといって、一切体型が気にならなくなったかと言えば そんなはずはなく、太ったなぁと思ったり、細い人に憧れたりしています。

ただ相変わらず見た目を重視してしまいながらも、細いことは二の次。
まゆげをきれいに描いたり、しっかりまつげを上げることの方が今は大切です。👀笑

体型を理想へと近づけようとするよりも、メイクで自分を表現することの方がよっぽどラクで楽しいです。

そしてなにより、メイクをするときは 等身大の自分 と向き合います。
この色が似合うな、とか、こういうメイクのほうが好きだな、とか、自分の見た目と好みに向き合って自分を大切にできています。
だからコスメにお金をかけることは悪いことじゃない。と言い訳をしながら、今日もコスメを検索しています。

わたしは何のために生きているのか?

 

「何のために生きているのか。」

一度は聞いたことがあるフレーズではないでしょうか?
あるいは、自身の心に引っかかってる方もいるかもしれません。
わたしの見解をまとめてみたので、見てみてください。

 

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【最近の疑問】みんな横文字の意味わかるの?

結論から言うと、わたしとしては
生きるのに目的なんてあるの?生まれちゃったんだもん!
という感じ。

「何のために生きているのか」という疑問を紐解くと、結構不思議な疑問だなぁと思った次第です。

 


 

まず、この疑問が生まれるのはどういうときか考えてみました。

「何のために」が表しているのは、自分は何のためにもなっていないのではないか、という不安だと解釈しました。
自分が思い描いた結果を出せなかったり、人に迷惑をかけていると感じたりするときに抱くと思います。
無力感罪悪感といってもいいかもしれないですね。

でも、有力善良であることが生きる目的なのかというと、わたしはそうは思いません。

そもそも本当に悪い人であれば罪悪感は感じないでしょうし、その時点でもうあなたは善良です。
それに 有力者はしばしば権力を乱用し、悪人になり得ます。
無力であることは自然で、悪いことではありません。

これをまとめると、何のためにもならないのが自然
不安を感じこの疑問に悩む必要はありません。
もちろん感じ方を否定するわけではありませんが。

 


 

ただし、社会では無力であることを受入れられにくいというのは事実です。
学校では成績を上げることを求められ、会社等でも 会社・社会 に貢献することを求められています。

でも、わたしは成績を上げて誰が喜ぶのか、誰のための貢献なのか、そしてそれは個人の人生の目的にはならないのではないかと考えています。

難しい表現を使うと、わたしたちは資本主義社会の部品として使われているのだということだと思います。
資本主義はあくまでも社会全体としてのシステムであり、個人の人生にまで反映して責任を負う必要はないのではないのでしょうか。

ひとりひとり、好きなように生きていいと思う。

 


 

次に、「生きている」という部分に焦点を当ててみます。
生きている、とはありますが、自発的に「生きている」自覚はありますか?

少なくともわたしは、受動的に産み落とされ存在している。
生まれたあとは、人生において生きるか死ぬかの選択肢がありますが、別に選択して生きている訳ではありません。
ただ時間が過ぎてきただけで、死にたいと思ったときだけ「死ぬ」の選択肢がよぎります。

「生きる」の選択肢を積極的に選ぶのはいつなんでしょう?
事故や災害に巻き込まれて、生きようと必死に這い上がる、そんなときでしょうか。

幸いにもわたしはそのような場面を経験したことがないので、「死ぬ」を先延ばしにしていただけ。
結果わたしは今生きている。これが一番近いような気がします。

 


 

ということで、考えれば考えるほどこんなこと考えなくていいよな、と わたし自身の認識が深まりました。
とはいっても、この疑問を考えたり悩むことは無意味ではないと思います。

今まで綴ってきたものはわたし個人の考えですから、皆さんも自分の考えと比較してみると面白いかもしれません。

わたしが考えた結果思うのは、社会に動かされたくはない、ということです。
わたしはわたしの気持ちに正直に生きたい。
生きる選択肢を積極的に選ぼうとは思わないけど、時間があるのであれば、その時間は穏やかに過ごしたい。

これくらい気楽に考えてもいいんじゃないでしょうか。

「笑顔になる」は良いこと?悪いこと?

 

笑顔になることについて、わたし自身が抱く葛藤を綴っていきます。

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【最近の疑問】わたしたちは「何のため」に生きているのか

笑顔になると聞くと、大半の人が良い光景を思い浮かべると思います。友達と仲が良いな とか、楽しそうだな とか。

でも、長い間わたしは笑顔になることを複雑に思っていました。
もちろん楽しいときや面白いときの笑顔は 純粋で素直に出てくるのですが、わたしの場合「いつも笑顔になってしまう」。

 


 

どういうことかというと、大して楽しくも面白くもないときも とりあえず笑顔を作る。
それもわざと、意識して ではなく、自然と「笑顔を作ってしまう」。
これは、良いことでしょうか?

自己紹介の記事で書いたように、 このおかげで人を傷つけることなく済んでいる面はあると思います。
これだけだと良いことかもしれないのですが、自分はこれに傷ついていた。
いつも自分を偽っていると感じて、人に対して申し訳なさに似た感情があったり、嫌いな人にも笑顔で接してしまい、嫌いな人に限って好かれてしまったり。

自分が本当に感じている感情と表情に出るの感情のズレで、どうして笑顔になってしまうんだろう…と本気で悩みました。
ついこの間まで。
同じように悩んでいる人、いないでしょうか?

 


 

「ついこの間まで」と過去形にしたのは、今はこんな自分でも良いか、と思えているからです。
過去の出来事を振り返って最近気付いたことがあり、考えを改めました。

その過去というのが摂食障害に基づくものです。
食べ物が怖くなりあまり食べられなくなったので、いわゆる栄養失調状態で、いろんなことができなくなっていきました。
そのひとつが笑顔

わたしにとって「笑顔になってしまう」こと=普通 で、嫌でもやめられないはずのものだったのに、今度は笑顔になりたくてもできない、しんどい、という状態に。

これで初めて異常事態だと認識できるようになりました。
(母によればそんな状態になる前から 既に異常であることは明らかだったようですが。)

それを最近振り返り、あのとき笑顔バロメーターになってくれていたんだと気付いたんです。
「普通」のバロメータ

 


 

笑顔になることは人にも悪いことではないし、自分にも役立ってくれた。
だから「笑顔になってしまう」ことを治さなくてもいい。
逆に大切に利用していこう と思っています、わたしは。

あなたは「普通」のバロメータ、持っていますか?

「自分のため」が「人のため」に自動変換される謎

 

わたしが、「働く」ということに対して持っている疑問や違和感について書いていきます。

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わたしは今、自分のため・・・・・に働くことを模索しています。
というのは、大多数の人が自分を犠牲にして働いているように見えて、息苦しいから。
(できれば働きたくないというのが本音ですが……)

わたしは気楽に生きることを大事にしたいので、人生の主を「労働」にはしたくないし、できない。

できない、というのはわたしが病のリスクを負っているからでもありますが、「労働」を主にしたくないという思いは理解が得られるのでは、と思います。

 

それなのに、自分のため・・・・・となると素直に受け止めてくれる人が少なく感じています。

 

わたしは大学で福祉を学んでいたのですが、福祉となるとなおさら。
福祉=人のために尽くす仕事
との認識が強すぎるのか、
「福祉」の場で 自分のため・・・・・に働く、という意味がわからないようなのです。

 


 

福祉を学ぶことは、わたしにとって自分を癒やすことに繋がりました。
誰にだって生きる権利はあって、その人であることに価値がある。
ならば わたしもわたしでいいんだ、と。
もちろんすぐにそう思えたわけではなくて、大学4年間をかけてじっくりと染みついた感じです。

 

次第に
経験した病は苦しいが、苦しいままにしたくない、苦しさを昇華させるために福祉に関わる仕事をしたい。
と思うようになりました。

 

ここには人のため・・・・・という意思は全くありません。
純粋に自分のため・・・・・です。
批判もあるかもしれませんが、わたしはそんな生き方を目指しています。
目指すというと大げさかな…憧れています。

 


 

ところが、面接に行ってどんなに説明してもこの意思は全く伝わらない。
「福祉関係ってことは、人のために働きたいんだね。」と勝手に解釈されてしまう。
どういうこと?

実は、今のバイト先の幹部も未だに理解していないようです。
もちろん採用面接の際も説明したのですが、
「持病の経験を生かして、今度は自分が人を支えたい」
というように理解されているようで、何度訂正しても そのキラキラしたフィルターはびくともしません。
困ったもんだ。

ちょっと誤解を生みそうなので補足しておくと、2021年4月現在 転職活動中で、今のバイト先は福祉系ではありません。
バイト先でいつか福祉系に…と話している、ということです。

 


 

わたしは、仕事を生きがいにする人を非難するつもりはありません。
ただ、仕事を生きがいにする人もいれば、他の趣味や興味を優先する人がいてもいい。
生きたいように生きたい。
そんな働き方じゃ満足な生活ができない、と思われる方がいるかもしれませんし、わたしもまさにその狭間で もがいています。
でもそれは、仕事以外に重きを置く生活が贅沢なのでは無くて、今の労働のしくみが多様な暮らしに合わない非現実的なものなのだと思います。

今はひっそりと、ベーシックインカムを待ち望んでいます。

ここまで読んでくれてありがとうございます。
ただのぼやきでしたが、良かったらあなたはどのように生きたいか、コメントで教えてください。