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当たり障りのない性格のわたしが、密かに持っている視点を綴ります。

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当事者って?|ジェンダー

 

「当事者」という言葉、よく使うけど文脈的に違和感を感じた出来事がありました。
このもやもやを綴ります。

 

 

かいているひと:cotton
マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。


先日ある人と話していて、
ジェンダー系の本を読んでます」と話したら、
「ちなみに私当事者ですよ」と教えてくれました。

いろいろ聞いてみると、トランスジェンダーだそう。
(詳細は個人情報なので控えます)

この会話を振り返るとなんとなく違和感があって。
その違和感について書いてみます。

 


 

説明は各専門サイト等を参照頂きたいのですが、
トランスジェンダーは、いわゆる性的少数者とされるLGBTQ+の「T」にあたるセクシャリティ
※専門用語には参考リンクを貼っておきます。

用語に違和感を持ったわけではなくて、
わたしが使った「ジェンダー」という言葉の意味において、「当事者」というのはしっくりこなかったんです。

きっとこういうことが言いたいんだろうということは推測できます。
性的少数者、LGBTQ+のいずれかなんだろうと。

カミングアウト自体は聞けて嬉しかったです。

 


 

では、わたしがどういう意味合いで「ジェンダー」という表現を使ったかというと、
性別の社会的な扱われ方、ということ。

男性であること(に見えること)、女性であること(に見えること)、によって受ける扱いは違うと思います。
男性は力強さを、女性はおしとやかさを求められるというような感じ。

ジェンダー 【SDGs用語集】

ジェンダーとは、生物学的な性別(セックス)ではなく、社会的、文化的に形成される性差を指す言葉です。


だからわたしはジェンダーにおいて、個人の内心における性別は考えていなかったんです。

ジェンダーは社会的なものだと考えいているから、性的少数者ももちろんだけどストレートの男女にも当然のように関係することであって、
ジェンダーの当事者とは?と思ってしまったんですね。

 


 

性的少数者にあたる本人から出た言葉であった、ということにも少し疑問がありました。
それこそ偏見かもしれませんが、性的マイノリティ当事者であるからこそ、性についての用語を慎重に扱うイメージがあるので、わたしとは考え方違うんだな、と。

捉え方によって、わたしのような解釈ではなく、すんなり受け止めることはできるのかもしれません。
言葉を慎重に扱っていない、というわけでもありません。

ただもやもやしていることを書いてみました。
人の言葉遣いにとやかく言うべきではない、というか言いたくはないのですが、自分のもやもやの書き留めとして残しておきます。

医師によって違うよね|てんかん

 

何度か主治医が変わってきた わたし。
医師もやはり人間。相性って大事です。

 

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わたしは脳動静脈奇形発覚後から、

検査( 血管造影 )のための病院
 ↓

手術(ガンマナイフ)のための病院
 ↓
通院( 経過観察 )のための病院

など、治療段階によって病院を変わったり、

てんかん専門医、通院の曜日

によって医師が変わったりしています。

各主治医の見解の違い

女性だから葉酸を - cotton の 目

てんかんの経過観察 通院時に、「女性として」葉酸サプリメントの服用を勧められました。 今まで10年ほど通院して初めてのこと。 概要と、抱いた感情を綴っていきます。

優劣をつけるわけではないのですが、
やはりわたしも人間、医師も人間なので、合う合わないがあります。

そこで、比較的長く診てもらったことのある医師3人について
どのような印象を持ったことがあるか、という話を書いてみることにします。

 


 

まず最初に印象に残っている医師は、
のんびりゆっくり、かつ簡潔に説明してくれる医師。
ゆったりペースが心地よく、あまり敷居を感じずにおしゃべりできる医師でした。
話しやすいのでなんでも聞きやすい雰囲気、たまに長居して申し訳なく感じるほど。

後に様々な医師に診てもらって思うことなのですが、この医師はある程度患者に伝えること、伝えない(聞かれれば言う)ことを取捨選択しているようでした。
簡潔に説明することが良い面でもあり、「あれ、そんなこと聞いてないな」と思ったりすることも。

そのころわたしが学生だったこともあり、わかりやすい説明をしようとしていたのかもしれませんが。
結果的にはわたしにとって良い印象の多い医師です。

 


 

2人目は、
テキパキとして、がっちり自分の意見を固めている印象の医師。
フレンドリーながら、何気ない質問をする隙がない感じでした。

治療方針は明瞭で頼り強く感じます。
ただし、医師の方針とは別の希望を伝えるとすんなりとは受け入れてもらえないことがありました。
わたしとしてはそのときの対応に圧を感じ、あまり良い印象はありません。

人によっては、話しやすく心強い医師とも言えるのでしょう。

 


 

3人目は、
どーんと構えて大丈夫大丈夫~と言う医師です。
医師っぽくないラフな印象。

服薬が順調で、治療という治療がないので詳しく把握できていませんが
最初の医師同様 聞けば教えてくれるスタイルで、おもしろわかりやすく話してくれます。
そのため正確さには欠ける気はします。

説明する、という感じがあまりないので、安心感を求める人にはかなり合うと思います。

 


 

以上の3名でも、タイプが全然違います。
患者側によって合う人もいれば合わない人もいて、同じ病気の治療といってもやはり人間の相性が重要だなと感じます。

また1人の医師をみても、もちろん長所短所それぞれあります。

わたしは1度だけ医師と合わないことを理由に、医師変更をしたことがあります。
曜日によって医師が変わる病院での変更だったので、通院の曜日を変更するだけで医師を変えることができました。(たしか主治医は変わらず)

変更後の医師も知っていたので気楽でしたが、
転院などを検討する場合は、その後の医師が今より相性が良いとは限らないので、ある意味賭けのようになりますよね。

相性が大事と言っても、相性の良い医師を見つけるのは至難の業です。
良い医師だと思ってもやむを得ず変わらなければいけないこともあります。

病気そのものと同じくらい、主治医の悩みは大きいんじゃないかな、と個人的に思っています。
良い縁を願うことしかできないですね。

ちなみに、
知り合いに良い医師を教えてもらう、口コミを聞く、
というのも手ではありますが、必ずしも自分に合うとは言えないのでそれもまた賭けかなとわたしとしては思っています。

全ての人間関係に言えること。
相性って難しいですね。

きまぐれ回|だらけてます

 

のんびりきまぐれ回。淡々と思っていることを。
(投稿が間に合わないときなどに出現します)
わたしのぐだぐだな近況。

 
 

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わたしは最近、ラクに過ごしている。
気持ちは少々揺れ動きがあるけれど、生活パターンが安定している。

少し前のきまぐれ回では不穏ループに苦しんでいたけれど、今は苦しくはない。
以前同様【暇】ではあるけど、多少やることが増えて、その分やっている気になってだらけてしまう。

 


 

正直やらなければいけないことをできていない。
掃除とかお金の管理とか、データの整理整頓、ブログの更新、読書。

生きれてはいる、それでOKとしたいところだけど、
「できていない感」が気持ちをどんよりさせる。

「何もしていない」からラクだけど、
「あれやらなきゃいけないのに、まあいっか」に慣れすぎて、不意に罪悪感に駆られたりする。

まあいっか、ができるようになったのは わたしにとって成長。
でも現実逃避なだけで、心のどこかには「あれならなきゃ」が引っかかってついて回って、重くなる。

だらだらぐだぐだ、生きてます。

「摂食障害」に頼っちゃう

 

摂食障害とはなんぞや
説明はいつになっても慣れません。

 

 

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もうほとんど摂食障害(拒食症)を自分から説明する機会はなくなってきましたが、どうしても言わなければならない場面もあります。▶わたしの現状

今回取り上げるのは、
ある程度親しい仲で 便宜上、摂食障害について伝えておいた方が良いと思われる場面での説明の仕方です。

例えば、愚痴を言える間柄で、
摂食障害にも関わる愚痴を言いたい、素直に本音を言いたい、という場合。

当事者同士のような深い話はするつもりはないけれど、概要だけは伝えなければ愚痴が伝わらない。

そんなとき、どう言ったら良いのか どれが正しいのか、未だにわかりません。

 


 

「普通に食べられない病気」

ではあると思うけれど、でも今は大抵のものが食べられる となったときに、
じゃあ治ったんだね、何も問題はないね、と捉えられます。

一部間違いではないものの、未だ何かしらの困難があるから伝えたいわけで、なかなか伝えるのが難しいです。

 



摂食障害」という言葉に抱くイメージが、人それぞれすごく差があるようにも思います。

なんとなく知識があれば、大変そう、と思う人もいれば、
痩せる病気、何が問題なの?というくらいの人もいる、
そもそも聞いたこともない、という人もいる。

だからどこからどこまで説明すれば良いのか、毎回悩むことに。

 


 

わたしの場合は、食べることに困難がある状況では、
会食が怖い、特定のものしか食べられない、というような説明になると思います。

ただ、あまりその部分だけを伝えたいということはなくて、
自分の自己肯定感の低さや歪んだ考え方で落ち込む、というような自分の性質を言いたいことが多いです。▶わたし自身の解釈

とはいっても、
認知の歪みが…自己肯定感が…というのは気が引ける、
というか伝わるかどうかもわからない、説明を求められてもきちんと説明できる自信がない。

だから難しくない言葉で表現したいのですが。

 


 

結局は、
摂食障害という食べられない病気になって、回復してはいるけどまだ困難があって、生きづらくて…
という説明になってしまっています。

食の問題はそこまで考えずに済むようになった今、
摂食障害」という単語は使わなくても良いのかも。

それでも使ってしまうのは、アイデンティティになってしまっている、ということかもしれません。

自分を当てはめすぎて、自分にぴったりな枠を手放したくないのかもしれない。
辛い思いをしてきたんだ、と心のどこかでアピールしたいのかもしれない。

誤解も生みやすい、偏見も起こりやすい言葉。
使わずに自分の言葉で、自分のことを説明できるようになったら良いんですが。
まだまだ先になりそうです。

化粧×プラ【ブラシ】

 

お化粧とプラの葛藤」詳細版の第3弾。
今回は【人工毛メイクブラシ】について。あくまでもわたしが思っていることについてです。

 

 

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メイク好きとして考えたい、化粧×プラ。

コスメに目がいきがちだけど、ブラシ・スポンジなどのメイク用品にもプラスチックが多く使用されています。

特にわたしが気になっている、メイクブラシに焦点を当てて書いてみます。

 


 

メイクブラシを買おうとしたときに挙がってくる選択肢は、
動物毛(天然毛) OR 人工毛(主にプラスチック)


動物毛は毛先が細く、肌あたりが優しいそうです。お手入れで痛みやすいため、慎重に扱う必要があります。
素材が貴重であったり、職人の技術を要することによって、価格が高いものが多いです。

動物の毛の種類

熊野筆に使われる主な動物の毛

熊野筆の穂先に使われている種類も長さも異なる10種類以上の動物の毛を紹介します。

一方人工毛は、動物毛ほど痛みにくく、手軽に扱うことができます。
主にプラスチックを使用し、量産されていることが多いため、比較的安価です。

 


 

以上の特徴から、あなたはどちらを選びますか?

わたしは、動物毛の方がメイク上級者、というイメージがありました。
でも、よく考えると「どちらが良い」とは言えない気がするのです。

なぜかというと、どちらにも欠点があるから。
この欠点は わたしが思う欠点であって、欠点とは思わない人がいるかもしれません。
参考程度に読んで頂けると嬉しいです。

 


 

では早速。
動物毛の欠点は何でしょう。

当たり前ですが、動物の毛を使用するという点だと思います。
ブラシ使用の際に、アレルギーが出る可能性がある、ということもありますが、
それ以前に毛の採取時に動物を傷つけていることになりそうです。

動物の毛だけをカットして使っているかと思いきや、動物を殺してしまっているようです。毛だけのために、命を奪ってしまっているのは良いこととは思えません。

もし、毛だけを使用する方法があるのであれば、まだ許容範囲といってもいいのかもしれません。
ご存じの方がいたら教えてください。

参考

さまざまなかたちで苦しむ動物たち

私たちの暮らしのかげで、さまざまな動物たちが人間から虐待を受け、苦しんだあげくに殺されています。 しかしその残酷な実態はほとんど知られていません。 犠牲になっている動物たちのその苦しみを、少しでも知ってください。

 


 

対して人工毛の欠点とは。
素材が主にプラスチックであることだと思います。

このシリーズで問題視してきたとおり、プラスチックは自然分解されず、環境を汚染してしまう物質です。

プラスチック製のものは、軽くて安価なものが多くて便利ですが、
わたしは使わずに済むものは避けるようにしています。

ブラシにしても、この問題は同じです。

最近は、
前述した動物毛使用の欠点を克服したもの、「よりよいもの」
であるかのようなアピールで、人工毛ブラシが売り出されているのを良く見ます。

消費者としては、謳い文句だけではなく、他の角度からもよく考えて購入したいなと考えています。

人工毛への転換

テクニックいらずで素肌美人に!初心者でもプロのテクニックを簡単に再現できる『江原道 メイクアップ ブラシ シリーズ』

テクニックいらずで素肌美人に!初心者でもプロのテクニックを簡単に再現できる『江原道 メイクアップ ブラシ シリーズ』

※江原道さん以外にも様々なメーカーが人工毛ブラシに切り替え始めています。

ちなみに人工毛に関しては、
「植物素材を〇%使用している」といったブラシもあります。

罪悪感は減るかも、といった感じでしょうか。

 


 

他にもきっと考えるべきことはあるでしょうが、
今わたしは動物の命か、環境保全かといった考え方をしています。

すごく難しい選択で、正直どちらも選べません。

それでもメイクが好きでブラシは使いたい。
自分の経済力とも相談。

となると、今は人工毛ブラシしか使うことができていません。
それがいいのか悪いのかもわかりません。

それでも悩むこと、良いことばかりではないことは
考える必要があると思います。

連想ゲーム

 

会話って連想ゲームみたい、とふと思いました。

 

 

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マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。


会話って何気なくしているけど、すごく頭を使う、高度なことだと思うんです。

わたしは結構会話が苦手な方で、よく話を振ってくれる人などはすごいなーと感心します。

 


 

連想ゲームみたい、と思うのは、相手の知識範囲をくみ取る必要があるから。

相手が全くわからない話をしても会話にならないなので、話そうとする話題についてどのくらい知っているかなどを、まず探ったり察知する必要があります。

こういう言葉遣いをするってことはあんまり知らないな、とか、かなり知識多いかも、などを相手の言葉・言い回しなどで把握します。

その上でどの程度詳しく話すか、などを自分の中で決めて話す。
相手の反応を見て言葉を返す、という行為ですよね。

それを瞬時にやっているわけです。
改めて考えるとすごいなと思ったんですよね。

 


 

例えば、最近こういう出来事があったよ、と話したいことがあるとします。

出来事にはきっかけがあったり、その前の出来事と繋がっていたりします。
それも直線的なことではなく、いろんな要素の複合的なものだったり。

それをどこから説明するか、相手がどれだけ理解できるかを判断する必要がありますよね。

わたしの場合、それらをできるだけきれいに、余計なことは省いてコンパクトに話をしようとする癖がある気がします。

わかりやすく、という意識もありますが、あまり自分のことを開示したくないという面もあると思います。

でも省きすぎて、自分が体験した話ではないような気がしてしまうことが多々あります。

出来事のいきさつを説明するのに、新たな自己開示があまりないように話を組み立ててしまって、ほんとはそういうことじゃないんだけど話としてはおかしくないからそういうことにしておこう、みたいな。

きれいな連想ゲームができた感覚。でも事実とは異なっていることもあるのであまりいい気分ではありません。言いたいこと言えてない気分。

 


 

こんな感覚、共感してもらえる人はいるのかな…

引っかかりのないすっきりした話になるので面白くもないし、会話も深まらない。

質問が返ってきても説明していないことが多いので、質問に対してもどこから答えればいいかわからなくなる。

で、会話なんて面白くない、となる。笑

じゃあ会話が上手な人の頭ってどうなってるんでしょうね。
たぶんセンスなんだろうな…とは思うんですけど。

 


 

わたしが特に困っているのは、病気の話

ひとりひとり違う背景があって、できるだけ省かないで話した方がありのままを伝えられると思います。

ただ、相手にどの程度伝えるべきかは場面によって違うし、あまり聞きたくない、という相手の場合もあります。

面倒くさいと思われるのも嫌なので、いつも以上に引っかかりなく話そうという意識が働いて、なにひとつ伝わらない会話になることも。笑

そうなると自分のストレス発散にはならなくて、難しいんですよね。

むしろ虚しくなってしまう。
「連想ゲーム」になりすぎて結局誰の話?みたいな、自分で面倒くさい状態になってしまったりして。

 


 

だから、文字にすることが 自分に合ってると感じます。
文字ならどれだけ時間をかけてもいいし、反芻して本当に自分のことを表現できているか確認できます。

反応が返って来にくいのが難点ですが、確実に自分の中で整理できている感覚はあります。

時間もかかるし、会話でできたらいいのになとは思うけど、自分にはこれしかできなくて。
会話得意な人を尊敬しながらも、無理に苦手を克服しようとはしないかなという感じです。

苦手ではあるけど、一応その場はやり過ごせる!それでいっか。

摂食障害のおわり

 

摂食障害から脱した、回復したと言えるのはいつだろう?
しょっちゅう考えることですが、未だ答えが出ないもやもやを綴ります。

 

 

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わたしは摂食障害(拒食症)を経験しています。
拒食症に限った話になりますが、完全に回復したと言える「摂食障害のおわり」がどこなのか、もやもやのまま書いてみます。

 


 

まず、症状がなくなった=回復 と考えるとします。

拒食症で言う症状は、
食 症状▶ カロリー制限、食べられない
身体症状▶ 疲れやすい、低血圧、無月経
精神症状▶ 肥満恐怖、情緒不安定

など。

これらがなくなれば回復といえることになります。

 


 

身体症状 があるかどうかは、比較的確認しやすいと思います。

正直、病院で治療している場合では、この部分しか見てもらえない場合も多いのではないでしょうか。
わたしが通院・入院した経験ではそう感じました。

数字で表れる体重の管理がそのほとんどで、あとは血圧など。
客観的な数値で明確に症状の有無を判断できます。

 


 

一方 食症状 の有無は、判断が結構難しく感じます。
買い物時にカロリーを確認するくらいはありなのか、ある一部の食べ物が食べられない状態はどうなのか、曖昧です。

わたしの現状は、メニューを選べば外食もできるし生活に支障はないけれど、どちらかというとカロリーが低い方を選びがち。食症状ないという自信はない、という感じです。

 


 

精神症状 に関しては 誰にでも波があるものなので、症状がなくなるとか、そういう言い方が正しいのかすらわかりません。

特性によっても左右されるものなので、摂食障害と完全に比例するものでもない気はします。

 


 

ここまでの解釈はわたし個人の解釈なので、違う考えを持つ方ももちろんいます。
ほぼ同じ解釈であったとしても、
上の全てがなくなったら回復、と思う人もいれば、
一部だけでもなくなれば回復、と思う人もいます。

 


 

わたしの今一応落ち着いている考え方は、

とりあえず摂食障害に振り回されないで楽に生きられたら回復


摂食障害に振り回されない ためには、必然的に食症状が落ち着く必要があると思います。
ただし、一切なくならないといけないとは思わなくて、自分の中で折り合いをつけられるくらいならいいのかなぁという感じ。

楽に生きる っていうことには、心身両面が必要だと思うので、
身体症状・精神症状どちらもある程度は改善するのが望ましいと思います。

特に精神症状が重要で、率直に言うと精神症状さえ良くなって心が落ち着けば良いかなとも感じます。
体の健康を考えると身体症状ももちろん重要なんですが、死に直結するほどでなければ、しんどくなければ、いいじゃんって思いたい。


 

この感覚は常に流動していて、これ!っていう確定的なわたしの思いではありません。
これからもきっと悩み続けるものなんだと思います。

むしろその定義の違いが、
人それぞれの、その時々の、「回復」かもしれないな、と思ったり。

「回復」が自分でもはっきりしないので 摂食障害回復者です とは到底言えず、
自分のことは「経験者」と言うことが多いです。

今現在苦しんでいる渦中であっても、少し楽になってきた立場であっても、
「経験者」であることには変わりないと思うためです。

悩みながら、少しずつ楽になりたい。