cotton の 目

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当たり障りのない性格のわたしが、密かに持っている視点を綴ります。

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わたしはズルい

 

わたしの人生を振り返ると、「病気だから」を免罪符に思っていたように感じます。
欠かせない「言い訳」だったというか。今もそうだけど…

 

 

かいているひと:cotton
マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。

 

「病気だから」という認識って、こびりついていて引き離せないんですよね。
今回は、そんな風に思い返したきっかけをお話ししたいと思います。

 


 

最近、ある懐かしい人と連絡を取るようになりました。
ある人とは、わたしが中学生のときの恩師です。

懐かしい話をしていると、当時の部活の話になり…
当時の感情だったり光景が浮かんできて、「あぁ、わたしはズルい」って思ったんです。

何がズルいかを言う前に、当時の背景から説明しますね。

 


 

わたしが所属していた部活動は、中学生にありがちなギスギスした運動部です。笑

特に理由なく仲間はずれにされる人が出てしまったり、表面上は仲良しなのにみんな顔色をうかがっているというような、超面倒くさい感じ。

どうしようもないなって思うんですが、当事者としてあの場にいたときは、とにかく変に目を付けられないように息を潜めていたように思います。

そんな中、突如わたしの病気が発覚することになります。

▼病気発覚時について

脳動静脈奇形とは【自己解釈】 - cotton の 目

わたしは、脳動静脈奇形がありました。あまり聞き慣れない病名です。 わたしなりの解釈を紹介しているので、参考程度に覗いてみてください。

病気の発覚後、部活動を制限されました。

主治医は、「気をつけていてもいなくても、発作は起きるときは起きる!」というスタンスだったので、制限していたのは学校側です。
何かあったら責任が取れないからという理由だったかと。

理由としては薄いものですが、実はこの制限にわたしは救われていました。

 


 

つまり、「病気だから」部活と離れられる、ということです。

部活が嫌なら辞める選択肢もあるけど、そんな勇気もなかったわたしにとっては棚からぼた餅状態でした。

完全に離れたわけではなくて「一時見学のみ」という感じでしたが、内部のギスギス感が心底苦痛だったことから思えば、一歩引いたことですごく楽になりました。

別に元気なので、部活の制限に対して抗議することもできたのに、甘えたんです。
ズルいですよね。
あの感情が鮮明に思い出されて、苦しくなりました。

 


 

どういう感情かというと、

もちろん「楽になった」「ほっとした」という思いもありつつ、
甘えたことに「みんな気付かないでくれ」という願い。
さらに、部活ができない分遅れをとる 焦り。

いろんな思いが渦巻く罪悪感に押しつぶされそうでした。
加えて病気自体の不安もあって、辛かったなという記憶です。

大丈夫、病気なんだから。
と自分で言い聞かせて納得させて。

 


 

これまで過去の話として書いてきましたが、現在までずっとこの「言い訳」をしてきたような気がしてなりません。

さすがに病気を前面に出すことはないし、心配して欲しいわけでもないので人には言いふらしませんが、自分の中で自分を説得する手段になっているというか。

わかりやすく言うと、
テストの点数良くなかったけど、病気だから早く寝ないといけないもんな、みんなより勉強時間少ないんだししょうがない。
みたいな。

持病があることは事実なので悪いことではないと思うけど、
それで良かったんだろうか、これからもそうやっていくんだろうか、ともやもやしている現状です。

もしかして、病気でなくとも 人間言い訳しないと生きていけないのか?
言い訳しながら生きてこれているなら、それでいいとも言えるかな。

依存症ってなんだろな

 

摂食障害が依存症の一種と分類されることについて。
もやもやしている主観を綴っています。

 

 

かいているひと:cotton
マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。

 

わたしは 摂食障害(拒食症)を経験しています。▶詳しく

摂食障害に関する情報に触れていると、「依存」「依存症」という単語がくっついてくることが少なくありません。

違和感とまでは言いませんが、ちょっとした引っかかりを感じているため、わたしの考えを書いてみますね。
主観のため、拒食症についての記載となることをご理解ください。

 


 

まず、依存症と言われて真っ先に思い浮かぶのはなんですか?

わたしは
▶アルコール
▶薬物
などが思い浮かびます。

知識としては、抜け出すのって難しいんだろうな、というぐらいです。
当事者がやめたくてもやめられないとおっしゃるテレビ番組などを観たことがあるからです。
離脱(禁断)症状が現れる、というのも特徴的でしょうか。

では、摂食障害(拒食症)も同じなんでしょうかね?

わたしとしては回復するのが難しいと思っているし、どうしたらいいかわからない病気です。
その点いわゆる依存症と似ていますね。

ただ、違う点も大いにありそうに思います。
アルコールなどはやめるのが治療 / 拒食症は食べるのが治療
離脱症状と呼べるものはない
など。

 



上記図表は、依存症の分類です。

もう少し詳しくいうと、
▶物質依存
▶行為依存
▶関係依存
の3つに分けられるようです。

これに基づくと、摂食障害行為依存 になるみたいです。
先程挙げたアルコールや薬物は 物質依存 になるため、違う要素はありそうですね。

確かに、拒食症は食べ物に依存しているって感じではない気がするし、物質依存とは言えなさそう。
行為となると、「痩せること」への依存となるんでしょうかね。

参考

どこからが「依存症」? - 依存症ってなんだろう?|NHK福祉ポータル ハートネット

「これって依存症?」混乱している人はいないでしょうか?

医学的に依存症とされているらしいことはわかりましたが、なぜわたしが引っかかりを感じるのか、書いてみます。

 


 

まずは第一に、自分自身 偏見があるからだと思います。

物質依存の場合はストレスを依存先の物質で解消しているように感じるんです。
もちろん、依存したくて依存しているんじゃないことも、悩みが解消されている訳ではないことも理解しているつもりです。

だけど、摂食障害と同じなのかというとあまり腑に落ちなくて。
拒食症で食べないことがストレス解消に繋がるかというとそうじゃないと思うから。

食べないことで細くなること、それが達成感を感じる=ストレス解消になっているのでは?と言われればそうなんですが、すごく遠回りですよね。
すぐに結果が出るわけじゃない。

しかも本当にストレス解消になっているかも疑問です。
太ることに対する恐怖があるのは事実で、痩せたとしても もっともっと、と恐怖は増大していったように記憶しています。

うーーん…
この「もっと」っていうところが、依存症っぽいですかね。

 


 

あと 先程書いた、拒食症は食べるのが治療っていうのは結構異色だと思うんですよね。

図表にあったものを見ても、
ギャンブル・浪費・インターネット・自傷行為
いずれも引き離す方が治療目標になります。

でも、拒食症は食べ物に近づけないといけないんです。
食べないと死んじゃうから当たり前なんですけど、そういう当たり前ができなくなる。

と考えると「依存」という言葉が似合わないように感じます。

 


 

ここまで、もやもやをもやもやしたまま書いてみました。

「依存症と言われたくない!」っていう訳じゃないんです。

摂食障害であることは認めているし受け入れている。
でも あまりにも完治するのが困難で、どの病気にも似ていない気がして、孤独に感じます。
(「治る」の定義が曖昧なことは承知しています。▶詳しくはこちら

依存症って一括りにできるものなんだろうか?と疑問を抱いている、という一個人の声です。

みなさんはどう感じていますか?

きまぐれ回|抜け出せない

 

今回もきまぐれ回。
(投稿が間に合わないときなどに出現します)
淡々と思っていることを書いています。不穏ループから抜け出せない。抜け出したい。

 
 

かいているひと:cotton
マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。

 

きまぐれ回が続いていますm( _ _ )m

前回の不穏ループから抜け出せない。
一瞬好調になったかと思えば、次の瞬間サーッとやる気が引いていって跡形もなくなってしまっている。

たぶん、【やりたいこと】が欠けているんだと思う。今の生活に。
全くないわけではないんだけど、ふわふわした締め切りのないものだから、エンジンがかかりにくい。
そして、それを終えたときにほとんど得るものがない。その先がない。

少しだけ具体的に言うと、今自分の頭の中にあるものを図表化したいと思っている。
どうしてかというと、単に整理するのが好きなだけだ。
学生時代には比較的成績が良かったが、勉強が好きだというよりはノートをまとめるのが好きだった。
だから、今だって思っていることをアウトプットして可視化すれば、すっきりすると思う。

でも、やる気が出ない。
「すっきりする」以外のなにものでもないからだ。
学力に繋がるわけでもなければ、どこかに発表するわけでもなく、誰かの目に触れ評価されるわけでもない。
すっきりしたあとに感じるのは虚無感ではないかと思う。

いや、わかんないんだからやってみろよ。
って思うんだけど、それがなぜか難しい。
すっきりしたいのに。

今日も何もやらなかった。
そう思って1日を終える。

今日はブログを書いた。

化粧×プラ【包装】

 

以前綴った「お化粧とプラの葛藤」について、これから項目ごとに詳しく書いていきます。
今回は【プラスチック包装】について。あくまでもわたしの思っていることです。

 

 

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マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。

 

メイク好きとして考えたい、化粧×プラ。
コスメを買っていると、何かとプラスチックゴミが出てしまうことに罪悪感を感じる今日この頃です。

そこで、この記事では コスメ包装の現状 や わたしにできること を考えてみたいと思います。

コスメ包装

前の記事でも書きましたが、わたしが気になっているのは「過剰包装」です。

過剰と思うのはわたしの価値観なので、人によってちょうど良いと思ったり もっと念入りにしてほしいと思ったりすると思います。
それを否定するわけではありませんが、考えるきっかけになると嬉しいです。

みなさんは包装に何をどこまで求めますか?
デザイン性? わかりやすさ? 商品の保護?

以下、わたしが把握しているブランドごとの 包装に対する姿勢 を紹介してみます。
(「環境配慮」などの言葉も使っていきますが、主にプラ包装に焦点を当ててブランドを選んでいます。もちろん他のブランドもたくさんあります。コメントで教えてください^^)

セザンヌ

パッケージの無駄を省いたり、容器を共通化することで毎日使い続けていただける価格を実現しています。

お手頃なセザンヌは、低価格化のために簡易包装としていることを公表しています。
結果的に包装に使用するプラスチックも減っているはずなので、シンプルで良いなと思っています。

ラブライナー

ラブ・ライナーリキッドは、全色つけ替えができるようになりました。

アイライナー名ブランドのラブライナーは、2022年3月からリフィル式となりました。
重みで安定したラインが描けると評判のブランドですが、ついにリフィルへ!と驚きました。
調べてみると どうやらリニューアルはそれだけではないらしく、パッケージ内の台紙がプラから紙に変更するなど、より環境にやさしくなっているようです。

UZU

最新テクノロジーを駆使したエコマテリアル

2019年にローンチしたUZUは、独特なパッケージに惹かれた方も多いのでは?
パルプモールドという再生紙をつかった素材によって包装されています。
なんとなくプラの方が清潔感を感じる気がしていたわたしですが、UZUには高級感を感じ、デザイン性の高さに感心します。
(ブランドとして環境配慮を強く押し出しているわけではないようですが、多数の評価を得ています。言ってないのに評価されるの、カッコイイ。)

 


 

デパコス系は、ほとんどのブランドが環境への配慮を考えていると言って良いくらいになってきました。
挙げるとキリがないので、有名なものをいくつか。

LASH

一般的に化粧品の製造コストのうち、パッケージが占める割合は約半分と言われていますが、ラッシュではパッケージにかかるコストを削減し、お肌に効果的かつ高品質な原材料に使いたいと考えています。

包装を一切なくそうという、大胆な方法を実践しているLASH。
「そのまんま」だったり、紙で包んだだけだったりします。包装に慣れているとびっくりしますが、「何が必要なのか」を考えさせられるブランドです。
上のリンクは興味深いのでぜひ読んでみてください。

ポール&ジョー

リフィル式のコスメが多いポール&ジョーは、紙製の詰め替え用ケースが選べるなど、カスタマイズが楽しめる様になっています。
ポール&ジョーといえば!というキュートな猫とお花がたくさん描かれていて、こちらもUZUと同じように、デザイン性に優れたブランドです。

 

わたしにできること

さて、ではわたしはプラ問題に対して何ができるのか。
先程挙げたような、プラ削減に取り組むブランドのものを積極的に使う、というのがやはり手っ取り早い方法ですね。

今一番好んで使っているのはセザンヌです。
やっぱりプチプラが有り難くて。
さっきも デパコス系の多くが環境への配慮をしている、と書きましたが、デパコスばっかり買うわけにもいかないもんね。
お金があれば別なんだけど😅

 


 

ただし、ここからが本題とも言えるんですが、やっぱりあのブランドが使いたい!とかあるじゃないですか。

わたしにとって代表的なのが「マスカラ」です。
わたし的にアイシャドウは、色さえ気に入ったらどのブランドでもそれなりに満足できます。
でもマスカラはそうはいかないんですよ。

カールキープは最重要事項だし、
にじみにくいのがいい。
ちゃんとセパレートもしてほしいけど
目力は欲しい。
消費も早いからプチプラで…

となると該当の商品がすっごく少なくて、
かつプラ問題も考えようとなると、メイクできなくなっちゃうんですよ(T-T)

メイクすることはわたしの精神衛生を保つ手段でもあるので、「ノーメイク」はなしとすれば、
「こだわるところはこだわる!」
「こだわりないところは環境問題を選択の軸に。」
というのが、今のわたしにできることです。

もしかすると、「妥協できるものなんてないよ」という人もいるかもしれません。

そういうときは、「ちょっとそこまで用」を作ってみませんか?
それぞれベストコスメはあるだろうけど、常にバッチリじゃなくても良いかもしれない。
ちょっとそこまでならキープ力弱めでもいいかな、と妥協できるところが見つかるかも?

こんなちょっとずつの積み重ねも、コスメの楽しみ方のひとつになればいいな、と思っています。

きまぐれ回|不穏ループ

 

今回はきまぐれ回。
(投稿が間に合わないときなどに出現します)
まとまりも起承転結もありませんが、淡々と思っていることを書いています

 
 

かいているひと:cotton
マイペース主義の慎重派。まとまらない視点・思考をブログで放出中。

 

最近のわたし、cotton の生活は穏やかすぎる。
少ないとは思いつつもバイトは行っているし、少なからず忙しさ や 他者との食い違い は感じていて、刺激が無いことはないのだけれど、これでいいんだろうかと不安になる。

バイトのない日、つまり日常のほとんどはYouTube視聴に費やしている。
好んで費やしている部分も もちろんあるけれど、時間つぶしになってもいる。あれもこれも観なければ、という脅迫感も無いとは言えない。

ひとことで言ってしまえば、【暇】なのだ。
毎日毎日ほぼ同じ事の繰り返しで、ただ時間が過ぎていくことを待ち続けている。

そんな状況なのに、このブログを書く時間がない…。
意欲が起きない。
と、当のブログに書くことも変だとは思うが、現状なのだ。

もっとやりたいことはあるはずなのに。
自分を責めてしまう時間も増えた気がする。
気のせいだろうか。

という謎の、不穏なループに陥っている、というお話しでした。

SNS初心者の感想

 

今までSNSとは距離を置いていたわたしですが、最近閲覧するようになりました。
その感想を綴ってみます。

 

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このブログの最初の記事でも書いているのですが、今までSNSとは疎遠でした。
知らない人と繋がってしまうこと大量の情報に流されない自信がないこと、が理由です。

今でもこの恐怖はかなり大きくて、積極的には活用しようと思っていません。
引き続きこのブログについては、読者のみなさんのシェア頼りです~笑

 


 

さて そんなわたしですが、はじめにも書いたように、ひっそりとSNSの閲覧を始めました。

アカウントを作ってしまうと後戻りできない気がするので、アカウントなしでも見られるサイトを経由しています。
※思い切ってアカウントを作りました!ブログとは紐付けずに使っています。

なぜ閲覧するようになったのか、それは、SNSでしか見られない情報をどうしても見たい事情が出てきたからです。

具体的に言うと、急激に好きになったアーティストの発信が見たい…という欲です。
このアーティストについては、魅力を共有したいと思いつつ、上手く伝えられるか不安なので 現時点では自制しておきます。

正直、SNSを見たいと思うほどに好きになったアーティストは 今までいなかったので、好きになっちゃうと隅から隅まで知りたくなっちゃうんだなぁ と自分で驚いています。

同時に、有名人のSNSがバズったり炎上するのも必然なのだと納得しました。

 


 

話を元に戻しますね。
SNSを閲覧するようになって、どう思ったか、感想を書いてみます。

  1. 有名人でも身近に感じる

    わたしの場合、アーティストの発信を見ることが目的だったので、すごく嬉しいことでした。
    お仕事上のものとは異なって、ラフな言葉遣いやオフショットが見られて、友達になった気分になります。

    一方で、身近に感じるからこそ中傷コメントなども書き込みやすい状況になると思うので、やはり扱いは難しそうに思いました。


  2. 新しい情報を求めて何度も見てしまう

    そして、早く次の投稿ないかなーと待ってしまう自分にギョッとします。
    ぜんぜん悪いことじゃないし、SNSに慣れている方にとっては当然の事かもしれないのですが、わたしにとっては違和感だったんですよね。

    例えば今までなら、ニュースサイトで偶然好きなアーティストの情報を見つけられたら、「ラッキー!」だったはずなんです。

    でもSNSは、絶対に発信が通知されるとわかっているから、投稿があれば嬉しいけど、なければ「今日もないのか~」と思ってしまって。
    こうなるとSNSに依存しそうな気配さえ感じます。


  3. 自制しないとキリがない

    あとは、とりあえず情報が脈絡なく押し寄せてくる事の忙しさ、ですね。

    わたしが閲覧しているアカウントはかなり限られていますが、それでも意図していない情報が目に入ることもあります。

    いわゆるリツイートというやつです。
    縁のない人の投稿も見ることになって、ちょっと頭が混乱します。

    アカウントを作って、本格的にSNSをするようになったら、興味のある投稿に次々と飛んでいって、本当にキリがなくなるんだろうなと思いました。


以上3点が、SNS初心者が思ったことでした。

 


 

ということで、今はアカウントなしでSNSを楽しみ始めた、というご報告でした。

今回はSNSに限って近況を綴ってみましたが、それ以外にも結構生活が変わったんです。

もちろんアーティスト関連なのですが、そのアーティストが出演するテレビ番組を欠かさず観たり、過去のインタビュー記事を探したり…。

ファン活動と言われるらしいこんな行動で生活が満たされていって、充実感があって楽しいです。
ふとしたときに「今日何もできてない!」と罪悪感に襲われることもあるけどね😅

でも、楽しいんだから良いんだよ、と言い聞かせている今日この頃です。

かつての夢②

 

かつての夢について、前回の続きを書いていきます。
今回は摂食障害前後の夢の動向です。このシリーズ完結します。

 

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かいているひと:cotton
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前回、かつて抱いた夢が作業療法士(リハビリの先生)だということを書きました。

前回はこちら

かつての夢①|病気持ちの夢の動向 - cotton の 目

わたしがかつて抱いていた夢と、その夢の動向について書いてみようと思います。 持病の影響で夢が左右されているので、健康状態とともに時系列で紹介します。

とはいえ脅迫的になっていったこの夢が、どうなっていったのか。

今回はわたしが摂食障害に悩む前後で、夢に対する思いの変遷を綴っていきます。

 


 

前回までの話は、主に中学卒業までの話です。
高校に入学してからも、夢は引き続き作業療法士でした。

進学校に進学したこともあって 大学を意識するタイミングは早く、作業療法士を目指せる国公立大学に行くため、猛勉強。

今考えると、作業療法士がゴールならば そこまで全体の学力向上にこだわらなくても良かったはずなんですよね。

偏差値が低めの大学でもそれなりに希望の学部はあるのに、表に出さない負けず嫌い完璧主義に火がついて、自分を追い込みました。

高校受験もかなりのストレスでしたが、よりレベルの高い高校での勉強もストレスでした。

それが影響したかどうかは 今となってはわかりませんが、高校2年のときに「摂食障害(拒食症)」と診断されるに至ります。

 


 

 食べたくない、食べられない
 勉強はしなくちゃ、授業に追いつかなきゃ

そんな葛藤と焦りの中で、頑張ってもなにひとつ叶わず 転落していく自分の人生に絶望していた、という感じです。

体重は落ち、痩せ は手に入った、とはいえるかもしれません。
ただし、自分が望んだ 痩せ とは似ても似つかない地獄でした。

どこが地獄だったのかというと、

  • 食べられないことは楽しくないこと。
  • 飢餓状態ともいえる状態で、感情や思考のコントロールができないこと。
    など。

この辛さを言語化するのは難しくて、伝わらないとは思うのですが、とにかく絶対に戻りたくない時代です。

 


 

そんな状態に、進路を考える時期があたってきます。

今を生きるだけでも辛くて苦しくて、やっとの事で存在しているのに、将来を考えるなんて無理でした。

でも、当時は信じ切っていた作業療法士に思考は一直線で、まぁそれ以外の選択肢を考える体力はなかったんです。

ただ、授業もまともに受けられない状態になれば、夢なんて言っている場合じゃない、って事も実感としてわかっていきました。

進級も危うかったのです。
もう無理だな、と悟って、動かない脳で考えて次に思いついたのは、「就職」でした。

いやいやいやいや!って突っ込みたくなりますね、いまなら。😅
体力なくて就職できるかよ。

でもね、本気だった。入院や通院をしていた身としては、家族にお金を使わせてしまっている罪悪感がものすごく大きくて、申し訳なくて。
大学進学ではなく就職という道なら、これ以上お金もかけず、むしろお金を稼ぐんだ。

母に伝えたら、当然こんこんと説明されました。
無理だよね、大学に進学して 4年間休むって考えたら。って。
そのとき印象に残っている言葉は「ひとつひとつしかできないよ」という趣旨の言葉。

病気も治したい、高校卒業もしたい、就職もしたい。
当時の自分は、高い目標がいくつもあって、一気に乗り越えようと必死でした。

でも、母の言葉から、あぁそっか。って納得したんです。
一気に完璧目指さなくて良いんだ。わたしってちっちゃい人間なんだな。って。
諦めとか、絶望に聞こえるかもしれないけど、わたしにとってはでした。

なぜか「良い子」と評価され続けてしまったわたしには、いつも完璧でいなくてはいけないという恐怖が常にありました。
でも、わたしだって普通の人間なんだ。弱い人間なんだ。と肩の力が抜けたのです。

 


 

それからは、徐々に「弱い人間」として生きることを意識するようになりました。
等身大以上に頑張るのはやめる、という感じでしょうか。

無理に受験勉強をしなくても入れる偏差値の低い私大に入学して、卒業単位ギリギリくらいを目指して、余裕のある大学生活を送りました。

そこで、生きていくだけで精一杯。わたしには福祉職はできないなぁと諦めました。
固執していた「作業療法」を手放せた。

正直、挫折感はあります。福祉職がうらやましいです。
だけど、わたしがわたしである以上できないんだよな。と納得もしています。

夢はなくなったわけですが、今は幸せです。
お金もないし、これからどうしたら良いのかもわからないけど、心が安定していることが一番の安心です。

かつての夢の話はこれで終結
夢って称賛されるけど、追い込まれる事もありますよね。
わたしは、夢がないのもそれは別に良いと思う。諦めるのも良いと思う。

キラキラした現実ってそうそうないと思っていて、わたしはこれからも等身大で生きていきたいと思います。